「ひつじの読書日記」
月刊誌「福音と世界」(新教出版社)2002年6月号〜2003年7月号の間で計13回にわたって連載。

2002年6月号
2002年7月号
2002年8月号
2002年9月号
2002年10月号
2002年11月号
2002年12月号
2003年1月号
2003年2月号
2003年3月号
2003年4月号
2003年5月号
2003年7月号

2002年6月号

◎「ハリー・ポッター」シリーズ『ハリー・ポッターと賢者の石』他既刊4巻 J.K.ローリング作 松岡佑子訳 静山社
◎「指輪物語」シリーズ『旅の仲間』『二つの塔』『王の帰還』 J.R.R.トールキン著 瀬田貞二・田中朋子訳 評論社

 はじめまして。私は東京で子どもの本屋をしています。絵本を中心に木のおもちゃや自然な食品・雑貨なども扱う小さな店です。また本屋の仕事以外に、女性からの相談を受ける相談スタッフもしており、セクシュアルハラスメント裁判のサポートなどもしています。それ以前は「自閉症」と呼ばれる人たちと一緒に暮らしていました。
 クリスチャンホームに生まれ、ミッションスクールに通い、思春期に洗礼を受けましたが、最近は教会にほとんど足を運んでいません。仕事で時間的に難しいということもありますが、話のできる相手が教会にはいないということが大きいと思います。今は日本フェミニスト神学宣教センターのセミナー等に参加することで、つながり直しているといったところでしょうか。
 本を読むことは、私にとって仕事というよりも、気分転換やリフレッシュ、そしてエネルギーの素でもあります。ほとんど活字中毒で年間200冊前後の本を読んでいますが、その多くは児童文学・ファンタジー・ミステリーです。これらの本を中心に私の読んだ本について語っていきたいと思っています。

 現在は、ファンタジー・ブームと言われています。ご存じの通り「ハリー・ポッター」がその火付け役です。「ハリー・ポッターと賢者の石」の映画に引き続き、「ロード・オブ・ザ・リング」(原作「指輪物語」第1部「旅の仲間」)も上映され、今までファンタジーなど読んだことのない人にまで話題となっています。
「ハリー・ポッター」は、シリーズ第4巻まで出版され(日本では第3巻まで)、世界的な大ヒットです。これだけ話題になったせいか、アメリカの原理主義的キリスト者の中には、「ハリー・ポッター」は禁書にすべきだという意見があるようです。正確なことは知らないのですが、魔法を使うのがいけないのだとか。確かに魔女狩りをした過去の経緯から考えて、魔法のファンタジーに拒否反応を示すのは無理からぬことかもしれません。ならば、ちまたに流布しているファンタジー、RPG(ロール・プレイング・ゲーム)から「指輪物語」のような古典まで全て禁止しなくては意味がありません。
 私に言わせれば「ハリー・ポッター」はそれらの中では”健全な”物語です。映画で顕著なのですが、暴力もセックスもない”文部省推薦健康優良児向け”という内容なのです。教師が圧倒的に力を持ち、恣意的に点数を決めるといった権力の濫用が描かれていますが、実社会の縮図である学校ものとしては当然のことでしょう。またこれはあくまで、”父を慕う男の子”の物語です。今の時代ですから、男女共学で人気競技の選手も男女混合と一応の配慮はしていますが、個性を持って登場する女性は一人二人に過ぎません。

 そういう意味では、「指輪物語」も男の物語です。記憶に残る女性は聖母役の妖精の女王のみ。本来アンチヒーローものとして描かれたはずのこの物語。つまり主役は王の血を引く者ではなく小さな弱いホビットであり、宝を獲得するためではなく、放棄するための旅物語なのですが、映画に抽出されたエッセンスは”闘い”でした。現代の観客をつかむスリルとサスペンスとスピード、いかにもハリウッドらしい作品です。それらの部分に対して今キリスト者としてノーというならわかります。そうではなく、ただ単に流行っているものに文句をつけるだけなら意味がありません。
 上質なファンタジーとは、荒唐無稽なものではなくむしろ人生のエッセンスを端的に物語っているものです。映画に描かれなかった「指輪物語」には、人生や人間を考えさせる要素がいろいろありました。ただし、主役はあくまで男性でしたから、私は自分が男ではないので冒険ができないのだと思いこんでいました。自分の人生で主役を張れないような錯覚に陥ってしまっていたのです。女の子がきっちり冒険しているもの、あるいは男女が対等な関係で主役を担っている物語を探し出すのは、相変わらず難しいものです。

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2002年7月号

◎「ライラの冒険」シリーズ『黄金の羅針盤』『神秘の短剣』『琥珀の望遠鏡』 フィリップ・プルマン著 大久保寛訳 新潮社

 女の子が活躍する数少ないファンタジーのひとつが、一九九五年から二〇〇〇年にかけて発表された「ライラの冒険」三部作です。哲学的・宗教的思索に支えられた、世界をめぐる壮大なこの物語は、「指輪物語」のように後世に残るものと評価されています。第一巻は英米の二つの児童文学賞を受賞し、第三巻はイギリスの2大文学賞のひとつであるウィットブレッド賞を児童文学としては始めて受賞しています。
 いくつもの世界が同時に存在するパラレルワールドが舞台で、第一巻『黄金の羅針盤』は教会が力を持つ中世的世界での話です。オックスフォードの学寮に住む少女ライラが自分のダイモン(守護霊)と共に、未来の読める真理計を手に、北極でダスト(塵状の粒子)の秘密を探っているはずのアスリエル卿を探しに出かけます。『神秘の短剣』では機械文明が支配する現代的世界の少年ウィルが男たちに追われ、開いていた「窓」から別の世界に入り込み、ライラと出会います。そして「窓」を切り開くことのできる短剣の守り手となります。この間、アスリエル卿は天の王国(=独裁的抑圧的な教会)に対する戦争の準備を始め、あちこちのパラレルワールドから天使を初め参戦者が集まってきます。『琥珀の望遠鏡』でライラとウィルは死者の国へ行き、死者それぞれが真実(=自分の物語)を話すことで幽閉から解放されることになります。また、創造主と自称していた年老いた天使のオーソリティを、それと知らず塵(ダスト)に返します。最後に二人が互いの愛に目覚めたときダストの流れがとまり、反教会派(=英知信望者)の天使たちが全ての「窓」をふさぐことでダストの流出を防ぎます。
 作者はティーンのための『失楽園』を描きたかったというように、キリスト教的象徴やイメージを使い、神の死とイブによる「原罪」の見直しによって世界を再構築していく過程を描いていると言えましょう。ライラは魔女たちに密かに語り伝えられてきた「イブの再来」であり、それを知った教会は彼女が誘惑される前に殺そうと計ります。しかしそれは彼女の知らぬ間に、周囲の人々によって阻止されます。結局、ライラとウィルが禁断の実を口にして知るのは、あるがままの真の人間でいることであり「魂の解放」でした。「それぞれの世界で地上に楽園をつくろう」とライラたちが決意する終章は、それまでの冒険の連続からうって変わって穏やかな空気に満ちています。
 哲学的な事柄に具体的な姿を与えて分かりやすく物語るというのがファンタジーの特長のひとつですが、この物語に登場するダイモンも魅力的なキャラクターです。ライラの世界では、人は皆ダイモンをもっています。子どもの頃はさまざまな動物や鳥・昆虫などに姿を変えますが、大人になると姿が定まり、それはその人の本質を現すのです。ウィルはダイモンをもっていませんが、ライラは中に隠されているんだと納得します。
 またダストも重要なアイデアです。教会はダストを「原罪」の源として排除しようとしましたが、本当は人の精神性・知恵・スピリット・魂を形つくるものでした。通常は目に見えず、それを見るために作られたのが琥珀の望遠鏡です。
 宗教的には非常にラディカルな作者ですが、ジェンダーにセンシビリティがあるとは言いがたいようです。ライラの母親のコールター夫人は、女でありながら教会の中枢に上ろうとする権力亡者ですが、最後には母性愛に目覚めライラを救おうと身を犠牲にします。結局女は娼婦か母性かというステレオタイプで処理されているようで、彼女の改心は私には納得できませんでした。またライラ自身、奔放で必要とあれば平気で嘘をつく子どもですが、一方で非常に無垢な少女として描かれます。無垢な少女だからこそ嘘をついても許されるのです。これが少年では嘘つきと無垢は同居できません。
 このような部分はありますが、魅力的な脇役も多く登場し、ハッピーエンドではなくても人間への信頼に基づく終わり方で、読むに値する物語と言えましょう。

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2002年8月号

◎「ゲド戦記」シリーズ『影との戦い』『こわれた腕輪』『さいはての島へ』『帰還』 アーシュラ・K・ル=グウィン作 清水真砂子訳 岩波書店
◎「ユリイカ」4月臨時増刊号 特集「『指輪物語』の世界ーファンタジーの可能性」P106〜113 「『指輪物語』の下に2匹目のどじょうがうじゃうじゃ」 風間賢二

 「指輪物語」と並び称されるファンタジーの傑作に「ゲド戦記」があります。一九六八年から七二年にかけて出た『影との戦い』『こわれた腕輪』『さいはての島へ』の三部作。加えて九〇年に第四部『帰還』が、二〇〇一年暮れには第五部『The Other Winds』が出版されました(日本では〇三年一月刊行予定)。
 第一部は、偉大な魔法の才能を持った少年ゲドの自立と成長の物語です。彼を破滅させようと追いかけてくる影、それを抱え込んで一人前になるというモチーフは印象的でした。第二部は少女の覚醒と自立の物語。大巫女として育てられたテナーが、ゲドと出会い、自分が囚われていることに気づき、自由な世界へ踏み出します。第三部は、魔法使いの最高位・大賢人となったゲドと少年アレンが、死と直面する物語です。二人は魔法の力が失われていく原因を探りに竜の島から死の国まで赴き、少年は成長して王となり、老人は力を使い果たし故郷へ帰るところで終わります。
 十八年ぶりに出た第四部は、子どもを育て上げ未亡人となったテナーの視点から、父親たちに虐待され蹂躙された少女や、魔法の力を使い果たしたゲドとの関係の中で、力とは何か、「その人自身である」とは何かを考える内容です。
 実はこの作品は、第五部が訳出されたら取り上げたいと考えていたのですが、見当違いの評に接してしまい、つい語らずにはいられなくなりました。問題の文章は「ユリイカ4月臨時増刊号 特集『指輪物語』の世界」に掲載のものです。「指輪物語」以降のファンタジーを紹介しているのですが、そこで、「ゲド戦記」は三部作で、「四作目は書かれなかった方がよかったという意見が大半をしめている。」としています。確かに出た当初は、魔法使いの冒険ファンタジーとは趣を異にしていたため、賛否両論でした。しかし、私の周りの女性読者の多くは、第四部こそがよかったと言っています。等身大の女の問題、性と暴力の問題、「力」の占有の問題、力をなくしあるいは奪われた者がどう回復していくのかなどがテーマだからです。
 作者の思いもこちらの方へ移ったようで、この後書かれた短編でも、世界が変化する中で右往左往する魔法使い=男たちと、太古の力を受け継ぐ少女を登場させています。第五部も魔法の力の及ばない状況下を描いているようで、つまり作品世界の基盤が変化しているのです。
 また、この評者は、第二部を「青年ゲドの性と抑圧の物語」としています。が第二部には性的な連想をさせる事柄は一切出てきません。ゲドに対するテナーが登場する以外は。相当なフロイトかぶれの解釈か、男と女がいれば恋愛という短絡的発想としか思えません。性の問題は、この評者が切って捨てた第四部で初めて扱われているのです。
 この世界での「魔法」は、言葉によって操られるもの、すなわち「知」です。そして才能ある男だけが魔法使いになれるのですが、その時、性欲にふたをすることで、力を自分の中から引き出すことが可能になる、ということが第四部で語られるのです。他者からも性的欲望の対象にならないようなまじないをかけることで、自分の力を守るのです。まるで修道士、ということは、魔法の力の衰えは、既存の力、価値観が変化している現在を映しているのでしょう。
 一番の問題は、テナーの物語を、「ゲドの物語」にしてしまうことです。女の物語は語るに値しない、女は男を映す鏡に過ぎないから歴史から抹殺していいというこれまでの男の論理を見事に表わしているようです。今回読み直してみて、第二部でテナーは自由になったのは、女が内面化して自らの規範としてしまっていた古い因習=家父長制からと言えるのだと気づきました。だからこそ、この評者はテナーのことなど取り上げたくはないのでしょう。
 男の論理で語る物語だけを良しとする、それこそ、作者が書き改めたいと思ったことのはずです。このシリーズに、「ゲド戦記」と名づけたのが誤りの元。そこに囚われて、世界の変化に追いつけないのは一体誰なのでしょうか。

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2002年9月号

◎『魔女ジェニファとわたし』 E.L.カニグズバーグ作 松永ふみ子訳 岩波書店

 朝日新聞の記事に、今の学生の魔女イメージは可愛らしいものになっているという話が載っていました。グリム童話などに出てくる意地悪な年寄り女の魔女ではなく、「魔女の宅急便」のような、現代風な少女の魔女を思い浮かべるようです。
 私も子どもの頃は魔女になりたいと思っていました。魔女狩りのことなど知らず、「魔女」=「悪」とは思っていませんでした。それよりも魔法が使えたら、と願っていました。それは、単純に願いを何でもかなえたいというよりも、みんなと同じになりきれない自分が、何か特別な存在であれば、その違いやみんなに受け入れられない自分に耐えられるだろうと感じていたからでした。
 そういう意味で『魔女ジェニファとわたし』のエリザベスもジェニファも私でした。9月の新学期直前に大きなアパートに引っ越してきたエリザベスは、ハロウィンの時もまだ友だちがないままです。ハロウィンの仮装をして学校に戻るとき、ジェニファと出会います。ジェニファは自分は本当は魔女で、普通の女の子のふりをしていると言うのです。エリザベスは、ジェニファのいうまま魔女見習いとなって修行を始めることになります。きちんと説明はされていませんが、劇を見に来た親たちの中で「黒人のおかあさんはたったひとりだったので、ジェニファのおかあさんとわかりました。」と書かれていて、ジェニファは学校でたったひとりの黒人だろうということがわかります。彼女もまたひとりぼっちの友だちのいない子だったのです。
物語の最後では、エリザベスは魔女ではないとわかったジェニファと対等な友人になるのですが、それは互いが互いを認め合ったからでしょう。みんなと同じ必要はない。違う自分を受け止めあえる関係が出来たと言うことなのだと思います。
30年も前に描かれた物語なのに決して古くはありません。作者カニグズバーグの個を尊重する姿勢は、今でもまだまだ強調されるべきことだと思います。つまり、「わたしはわたしでいい」「ありのままのわたしが大事」ということを実感できるかということなのです。「母」や「娘」、あるいは「男」などという枠にはまり込み、それに合わせるのではなく。
 この話には、大人に可愛がられている優等生のシンシアが出てきますが、彼女は「ネコッカブリ」です。彼女もまた本当の自分ではない「いい子」を演じているが故に、他者を排除する方向に向いてしまうのだろうと、大人の私は推察してしまいます。
 また、ジェニファは思い通りに生きているようですが、自分を受け止めきれていないし、エリザベスは自信がない状態でした。互いが親しくなり認め合うことが、二人が一歩成長するきっかけとなりました。
 カニグズバーグは何冊もの本を出していますが、彼女が描くのはほとんど12才です。「人生でもっとも残酷な季節」「情緒発達の分岐点」と考えているからです。みんなと同じでいたいのと同時に違う特別な存在でもありたい。親や教師や友人たち、そして何よりも変化し始めた自分との折り合いをつけなければならない時期。そういう時を、「私は私でOK」と思えるような自己尊重の思いを身につけていく、そんな子どもの姿を描いています。
 主人公は女の子だったり男の子だったりしますが、どれも基本は、「自分が何者かであるかを捜し、見出し、そして最後にはそれを楽しく味わう子ども」を描いていて、共感を持って読むことができます。自分探しに四苦八苦している今の日本の大人たちにも読ん欲しい作品ばかりです。

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2002年10月号

◎『ケルトとローマの息子』 ローズマリー・サトクリフ作 灰島かり訳 ほるぷ出版
◎『剣の歌』 ローズマリー・サトクリフ作 山本史朗訳 原書房

 ローズマリー・サトクリフの新刊を読みました。今年出た『ケルトとローマの息子』(灰島かり訳)と『剣の歌』(山本史朗訳)の2冊です。
 サトクリフはイギリスの歴史小説を多数書いた作家です。その多くがヤングアダルト(思春期以降向け)で、イギリスの古代から中世を舞台に、少年が大人になる過程を描く成長物語です。
 サトクリフの作品を歴史ファンタジーと称する人もいますが、史実に基づいて描かれた物語で、あり得ないことが起こるわけではないので、ファンタジーに分類する事はできないと私は思っています。 実際彼女は、綿密な調査を基にして、その時代の情景や歴史的意味を背景に人物を造形し、巧みな構成でその成長をリアルに描き出しています。読み応えのある骨太な作品という形容がぴったりの物語ばかりで、カーネギー賞を始めいくつもの賞を受賞しているのは当然の結果だと思います。
ですが、現在翻訳されている創作作品の主人公は、全て男性です。さまざまな制約によって、自分の居場所を確保するための闘いを強いられ、子どもから大人となっていく少年なのです。その制約はたとえば『剣の歌』では修道士を殺したために村から追放されることですし、『ケルトとローマの息子』では嵐の夜に拾われケルト部族で育てられたローマ人の子だということです。あるいは身体の不自由さだったり、奴隷の子であったり、大失敗した新人将校だったり。さまざまな苦難を経、憧れる年長者や心通わせる異質な友との出会いを通して、彼は成長し、大人になるのです。つまり自らを知り、受容又は許容し、社会的な地位もえたりするのです。いわゆるハッピーエンドではないのですが、最後には何らかの納得を得られるような状態です。
 まさに「男の世界」 を描いているので、残念ながら女性はほとんど出てきません。出てくるのは彼を思う故郷の母、慈愛深く賢い王妃・王女、あるいは奔放な少女などです。しかもそのほとんどは直接的な交流が少なく、彼女らは彼の思いの中にしか存在しないようです。好意的に描かれてはいても、個性が感じられるほど描き込まれている女性はすごく少ないのです。
 私はサトクリフが女性差別や蔑視をしていたとは思いません。しかし、サトクリフ自身が制約をはねのけて成長する人間として想像しえたのは、彼女の豊かな想像力をもってしても男性だったという事なのです。自分の意見を述べ、自分で自分の道を切り開こうと行動する女性は、「奔放な女」でしかなく、そのままでは社会に許容されないのです。過去を舞台に描くなら少女は主人公足りえないのでした。いえ、幼い時の病気が元で手足が不自由な、一九二〇年生まれの彼女は、自分の制約から解放されるためにも、主人公が女性ではだめだったのではないでしょうか。悲しい「時代の制約」とも言えるでしょう。
 サトクリフの作品は、岩波書店から一九七〇年前後に五冊だけが訳出されていました。九〇年代になってそれ以外の作品も翻訳されるようになりました。パワーのある作家だと感心していましたので、彼女の作品が新たに訳出される度に読み、楽しんできました。
 でも、今回読んだ『剣の歌』は、どうもノリがよくありません。これは遺作で、ほとんど完成されていた草稿を友人たちがまとめ、死後何年も経ってから出版されたものなので、そのせいかもしれないとも思いました。物語の骨格やストーリーの運びは確かにサトクリフなのです。しかし、何かが違う。なぜいつものようにのめり込めないのだろう。途中ではたと思いました。これは訳のせいではないかと。続けて読んだ『ケルトとローマの息子』は違和感を感じることなく読み進むことができたのです。
 訳の山本史朗氏は、トールキンの『ホビット』の新訳もした人なのですが、やはりそれも私には読みにくかったのです。初訳を批判しつつもその訳に寄りかかっているところもありで、落ち着かなかったのです。今回のサトクリフの作品は初訳ではありますが、すでに猪熊葉子さんなどの訳文が定着している後だけに、違和感を感じてしまったのかもしれません。翻訳物が好きな私は、訳によって読みにくいと感じたことは今まで無かったのですが、今回ばかりはしっくりこない感じでした。せっかくのサトクリフ作品が楽しめず、残念な気持ちは拭えません。原文で読む力のない私は、訳者の感性に頼るしかないのですから。

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2002年11月号

◎「12国記」シリーズ 『月の影 影の海』上下 『風の海 迷宮の岸』(ホワイトハートは上下) 『東の海神(わだつみ) 西の滄海』 『風の万里 黎明の空』上下 『図南(となん)の翼』 『黄昏の岸 暁の天(そら)』上下 『華胥(かしょ)の幽夢(ゆめ)』 小野不由美作 講談社
◎『魔性の子』 小野不由美作 新潮社

 「12国記」シリーズを読み直しました。というのは、今、NHKのBS2でアニメ放映をしていて、友人が取ってくれたビデオを見たら、もう一度読みたくなったのです。
 「12国記」は、小野不由美の書いた山海経や道教など中国の神仙の世界をベースにしたファンタジーです。初めは講談社X文庫ホワイトハートというティーンズ向けのものでした。昨年になって一般の講談社文庫版で同じものが出て、この春からはアニメにもなってしまったのです。現在は、両方の文庫で各7巻と、アニメ台本版なども出ています。
 舞台は12の国があるという別世界で、顔は東洋人風だが、髪と眼と肌の色はさまざまな人々が、電気などない機械文明以前の暮らしをしています。各国の王はそれぞれの麒麟という霊獣が天命を受けて選びます。王は神となり、道をはずさない限り何百年も生き続け、結果国は栄えます。天帝がいて理(ことわり)があり、人は成人になれば田畑と家をもらうなど、この国のシステムは、道教がベースなのか良く考えられたものです。
 もう一つこの世界に特徴的なのは、子どもは木になるということです。夫婦が里木(りぼく)に願って細帯を結び、天が認めるとそこに実がなり、10ヶ月でその実をもぐと赤ん坊が生まれるのです。動植物全てその木の実から生まれます。ですから、男女はあっても、差別はない。王も麒麟も将軍も文官にも男女がいて当たり前。という設定ではありますが、人は自分の生きる状況から自由になり切れはしないのでしょう。男女のペアでなければ子を願えないとか、なぜか売春宿があり、女性が身を売ったり。あるいは登場人物のうち優秀な官吏には男性が多く、いわゆる「女らしさ・男らしさ」にかなう人が多いのです。妊娠・出産ということがなければ、職業的キャリアは変わらないはずとまでは考えても、そうであるなら2つの性が必要なわけでもないことまでは考えていないのです。その辺の詰めは甘いのですが、それでもこの発想はユニークです。また、ティーンズ向けで出発したわりには、恋愛が描かれていません。それでこれだけファンを集めるのですから、それ以外の点で若者の心をつかんだということになります。
 それは、設定の面白さだけではなく、今の若者の気持ちをすくいとるような心理描写がさりげなくなされているのです。第1巻『月の影 影の海』の主人公陽子は優等生です。実は自分を強く主張できずに、全ての人にいい子であろうとしていただけなのです。第2巻『風の海 迷宮の岸』の主人公泰麒は、祖母と母にはさまれて自分は何をやっても満足してもらえない、いない方がましな存在だと思っています。さらに外伝ともいえる『魔性の子』(新潮文庫)で、この泰麒に関わる大学生は、この世界に自分の居場所がないように感じています。これらは今の若い人たちが抱えている問題です。答えらしきものが出ているのは第1巻だけですが、それぞれそれを背負って生きていかなければという雰囲気で終わります。
 特に第1巻の出だしは、緊張感が高く、話の展開も矢継ぎ早で、一気に引き込まれます。高校生の陽子の前に突然金髪の男性が現れ、その別世界へとさらわれてしまいます。が、妖魔に襲われその一行とはぐれ、訳が分からぬまま、必死に生き延びようとするのです。妖魔に襲われ、役人や兵士に追われ、右も左も分からぬ異国を逃げまどうのです。男が彼女に憑依させたものが、彼女の手足を動かし、男に渡され剣を使って闘わせてくれる、それだけが救いです。出会った人には裏切られ、彼女は故国を幻で見、孤独の中で自分と向き合わざるをえません。
この、冒険とは言えない艱苦の、ぎりぎりしたところが私は好きでしたのに、アニメでは原作にはないキャラクターが出て、孤独になりきらないのです。ハリウッドもそうですが、日本のTV・映画界も原作にはない設定をして、全く違う作品にしてしまうことがしばしばで、そのたびにうんざりしてしまいます。今回も、作品世界はそう変わらないものの、やはり原作よりも軽いものになってしまい残念でした。
 主人公陽子が、初めは泣くだけだったのに、大変身していく第1巻と、王になった後の陽子を中心に描いた第4巻『風の万里 黎明の空』が私はやはり好きですが、第6巻『黄昏の岸 暁の天』では、神が実際にいるなら間違いもするだろうというような議論をしていて、読み直してみたらやはり面白かったです。

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2002年12月号

◎『クリスマスの魔術師』 マーガレット・マーヒー作 山田順子訳 岩波書店
◎『目ざめれば魔女』 マーガレット・マーヒー作 清水真砂子訳 岩波書店
◎『足音がやってくる』 マーガレット・マーヒー作 青木由紀子訳 岩波書店

 もともと児童文学は自ずと成長物語になっていることが多いものです。成長とは、すなわち自立と自己(アイデンティティ)確立といわれてきました。確かに少年が主人公の場合は冒険に出るなどして家族から独立したり、年長者に独立した人格であると認められるなどの結末が多いのです。しかし、少女が主人公の場合は、結婚して母となり、いわゆる「家庭の天使」という役割の中に個性がうち消されることが成長と描かれる作品が多かったのです。「赤毛のアン」しかり、「若草物語」しかりです。
 現代の児童文学ではそんな二重基準ではないはずですが、少女が成長することをうまく描いていない作品も多いのです。今までの少年の文学のように、簡単に家族を捨て自立することだけがいいと言うのではありません。成長して大人になるということは、確かに主体的な自分を確立することではありますが、もう一つは対等で認め合う関係を結べるようになることだと思うのです。人とのつながりの中で人は生きていくのですから。
 ニュージーランドの作家マーガレット・マーヒーの描く少女たちの多くは、家族を含めた他者との関係を再編する中で少女から娘へと成長していきます。ですからその結果、彼女の個性や自己表現力が消えることはなく、むしろ新しい自分を発見したり、自分を適切に表現できるようになっていったりしています。
 『クリスマスの魔術師』(山田順子訳 岩波書店)は五人兄弟の真ん中、十七歳のハリーの物語です。舞台は南半球なので、クリスマスは真夏、夏至の直後になります。夏休みに別荘に来た大家族、そこにさまざまな客人が現れ、衝突が起こります。ハリーは密かに物語を書いていますが、それはこの年頃にありがちな妙にロマンティックなものです。そして突然海から訪れた三人兄弟が、自分の物語の登場人物をそっくりなのに驚きます。彼等はこの古い家に出る幽霊ではないか、疑いながら惹かれていくハリー。そこで生ずる出来事によって家族それぞれが、自分や他者と出会い直し関係を結び直す事になります。最後に今まで書いていたノートは破棄せざるをえないけれど、違う物語を始めればいいとハリーは納得していくのです。
 『目ざめれば魔女』(清水真砂子訳 岩波書店)は現実の世界に魔法が紛れ込んでくる物語です。ローラは十四歳。三歳の弟が、手にスタンプを押されて生気を吸い取られていくのを救おうと、魔女になる決心をします。それを助けるのが、旧家の一人息子のソリーとその母と祖母。彼等は魔女なのです。ローラとソリーの関係と、シングルマザーの母ケイトの恋愛による母娘の関係、再婚した父との関係などが、物語の中でそれぞれ結び直されていきます。夢魔との対決を経て、ローラは自分や周囲の人についてより深く知るようになるのです。
 『足音がやってくる』(青木由紀子訳 岩波書店)は、バーニーという八歳の少年が主人公です。ある日突然耳鳴りがして声が響き、古めかしい姿の子どもの姿が見えます。具合が悪くなりながら家に帰ると、姉たちから大叔父さんが死んだと言われます。彼はバーニーを出産した直後に死んだ母の親戚でした。バーニーは、頭の中の足音が次第に大きくなり、目の前にさまざまな風景を見せられても、出産を間近に控えた継母を心配させまいとします。しかし、死んだ大叔父さんの弟で、若くして死んだというもう一人の大叔父さんが、魔法使いとしてついに目の前にやってきます。ところが、大叔父さんが捜していた魔力のある子どもは、彼ではなかったことが分かるのです。
 この物語は男の子の物語として始まりますが、実は少女が自分を取り戻していく物語だったのです。この点については『秘密の花園』(バーネット)の意趣返しだという批評もあります。『秘密の花園』は、女の子の物語として始まったのに、最後は父と息子の話になってしまうのですから。
 それはともかく、読み直すと、ちゃんと少女の物語が埋め込まれていてるのです。その少女は、自分の本当の姿を表明することで、関係を切るのではなく新たに創り直すしたのです。彼女が、大叔父とは違い恐怖に因らず魔力を証明するシーンは印象的です。だから、少女が年長の大叔父に、愛情をもとにした家族とのごく普通の関係を教えるという逆転も、当然のこととして読めるのでしょう。 

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2003年1月号

◎『捜査官ケイト 夜勤』 ローリー・キング 布施由紀子訳 集英社文庫
◎ヴィク・シリーズ『サマータイム・ブルース』他 サラ・パレツキー 山本やよい訳 早川書房
◎キンジー・シリーズ『アリバイのA』他 スー・グラフトン 嵯峨静江訳 早川書房

 私のストレス解消法の1番はミステリーを読むことです。なぜかというと、色々ありながらも最後は無事解決して「めでたし、めでたし」で気分良く終われるからです。もちろんファンタジーや児童文学でも、ハッピーエンドになることは多いし、最近のミステリーは事件は解決してもハッピーエンドとは言えないものも結構あります。それでも疲れたときはミステリーについ手が伸びてしまいます。
 1990年前後に、ミステリー界では、女性作家による女性探偵ものが流行しました。サラ・パレツキーによるV・I・ウォーショースキーやスー・グラフトンのキンジー・ミルホーンなどが筆頭に上げられるでしょう。それ以前は、ミステリーやSFは男性のもの、女性には書けないと思われていました。ですから、過去に男性名のペンネームで書いていた女性のSF作家が何人もいます。作家も男性なら主人公の探偵役も男性、というのが主流で、特に、ハードボイルドは男が危険を乗り越え悪を暴き、女は誘惑者かアシスタントでした。スー・グラフトンの書いた『アリバイのA』はその裏返しで、キンジーの前に現れた魅力的な男性が実は、という展開でした。
 また、80年代のV・I・ウォーショスキーは、マッチョな警官に「ベイビー」などと呼ばれるたびに、相手に噛みつき、プロとしての自分をきちっと見せてきました。今では、彼女らが探偵であることは自然であり、プロとして振る舞い、扱われています。時代が確実に変わった、と思うのです。女性が苦悩しながらもそれを乗り越え生きていく姿には、いつも励まされます。
またそれまでの男性が主役のミステリーは、基本は謎解き、探偵役は仕事に徹していて、その人のプライベートな生活などほとんど描かれていませんでした。登場人物は事件にかかわる人間か、警察などの同僚のみ。彼の友人などというのは登場しないのでした。ところが女性探偵たちのシリーズでは、彼女の友人関係が事件との関係あるなしにかかわらず、かなり描かれています。彼女がどんなところに住み、内装がどうなっているのか。好きな食べ物は何で、趣味は何か、どんな服装をしているのかなどなど。毎回の事件の捜査だけではなく、彼女の生き方、パートナーシップの取り方(仕事でも親密な関係でも)、が作品の半分近くを占めています。
 最近読んで印象的だったミステリーは、『捜査官ケイト 夜勤』(ローリー・キング 布施由紀子訳 集英社文庫)でした。ケイトは警官で、女性のパートナーと暮らしています。このシリーズ4作目では、破綻しかけた彼等の関係は修復されています。そして彼等と仲の良いカップル、やはりレズビアンで、養子がいて、なおかつ一人は妊娠しています。そういう友人たちが間接的に事件にかかわってくるのです。妊娠していない方はロスアンジェルスにあるゲイ・レズビアン・コミュニティの教会の有名な牧師です。彼女は、インドやオリエント地方の怒れる女神のイメージが、旧約の神のイメージに影響しているという論文を書き、女性への理不尽な扱いに怒り、行動を起こすような人です。また、みんなで見に行く舞台が「雅歌」を現代風に解釈したものです。乙女は情熱的に愛を語りますが、相手を捜しに出た街で夜警に犯されます。が、直後に出会った相手はその痛みに気づきません。このような解釈は新鮮で、思わず聖書を開いてしまいました。
 ケイトは今は理解ある上司の下で仕事をしていますが、当初は女性でありかつ同性愛者であることで、署内で理不尽な扱いを受けていました。差別してはいけないと頭では分かっていても、自分とは異質な理解できないものを許容できない人は多いものです。彼女はいちいち取り合わず受け流そうとしていました。ある事件の捜査をきっかけに、周囲の同僚たちはようやく彼女を仲間として認めるようになったのです。今回は、性暴力やドメスティック・バイオレンスをしている男性が、晒し者にされ、ついには殺人が起こります。ケイトは仕事中毒とパートナーに言われないように努力しつつも、身を挺して事件を解決していきます。
   アメリカのミステリーは、アメリカの今を映し出し、特に自分らしく生きようとしている女性たちの空気を伝えてくれているようで、元気になることが多く、よけい読むのをやめられません。

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2003年2月号

◎『ダークホルムの闇の君』 ダイアナ・ウィン・ジョーンズ 浅羽莢子訳 東京創元社
◎『魔法使いハウルと火の悪魔』 ダイアナ・ウィン・ジョーンズ 西村醇子訳 徳間書店
◎「クレストマンシー」シリーズ『魔法使いはだれだ』『クリストファーの魔法の旅』『魔女と暮らせば』『トニーノの歌う魔法』『魔法がいっぱい』 ダイアナ・ウィン・ジョーンズ 野口絵美、田中薫子訳 徳間書店

 神は、願わなければ叶えてくれないのです。ダイアナ・ウィン・ジョーンズというイギリスのファンタジー作家によれば。彼女の日本での最新刊『ダークホルムの闇の君』(浅羽莢子訳 東京創元社)の中でそう語っています。
 魔術師ダークの住む魔法世界は、魔法のない世界からの観光ツアーによって疲弊しています。チェズニー氏が勝手に企画するツアー日程を守らなければならないからです。彼は魔物を後ろ盾にした契約でこの世界を縛り、国土を縦断する戦争や海賊・山賊・竜との闘いに、観光客を巻き込み満足させる事を要求してくるのです。実際に街や村、田畑が破壊され、死傷者も出るので、魔法世界はこのツアーの辟易していますが、逃れることが出来ないでいます。
 今年ダークは、神のお告げにより、このツアー全体を統括し、大戦争を指揮し、最後にはツアー客に破れる「闇の君」を担うことになりまた。ツアーは例年より多く百二十六組が三カ所から毎日出発します。各組に同じような災難や闘いなどのいわばアトラクションを用意しなければなりません。ダークの妻も娘や息子達、人間の子もグリフィンの子も総出で手伝うことになりますが、それでも準備が間に合いそうにありません。
 チェズニー氏は今回ツアーの途中で〈神の出現〉を要求しました。ダークは有力な司祭長に依頼しましたが、こればかりはどうにもならないと言われてしまいます。そう、しっかり設けているやり手であっても、信仰に関することは譲れないというのです。その帰り道、ダークはかつて神が顕現した場に設けられた祭壇で、神に助けを請うたのです。
 この設定からお分かりかもしれませんが、物語はユーモア満載、風刺もたっぷりのドタバタ調です。だからこそ、最後の土壇場を救う神々の登場を、御都合主義でも不自然でもなく描くことができるのでしょう。
 もちろんこの作品は、ただのドタバタではありません。チェズニー氏は、魔法世界をテーマパークとしてしか見ず、ダーク達を同等の人間ではなく薄っぺらな存在としてしか扱いません。まるでかつての植民地に対する英国人のようではありませんか。魔法に関するありとあらゆるものが登場する設定でありながら、姿形や目に見える才能では人は計れないことなどを、じわっと感じさせてくれるのです。『ハリー・ポッターと賢者の石』を抑えて「ミソピーイク賞(Mythopoeic Fantasy Award)」を受賞したのもよく分かります。
 この作者の『魔法使いハウルと火の悪魔』(西村醇子訳 徳間書店)も、同様にユーモア溢れる、ドタバタ一歩手前の何でもありのファンタジーです。魔法や昔話が当たり前の世界で、ソフィーは三人姉妹の長女です。つまり運だめしに出たら手ひどく失敗する運命にあるというわけです。事実、父親が死んだ時、継母はソフィーをしがない帽子屋の跡取りにし、妹たちをそれぞれパン屋の見習いと、魔法使いの弟子にしたのです。しかも、帽子屋の店番をしていた時に、ソフィーは荒れ地の魔女(西の魔女のもじり)に呪いをかけられ、九〇才の老女になってしまいました。ソフィーはともかく家を出ることにし、あげくに魔法使いハウルの動く城に住み込むことにしたのです。
 この作品は、自分の思い込みで才能や可能性などを限定してしまっていたソフィーの自分さがしがテーマになっているといえます。またソフィーが九〇才の姿になったように、見た目と真実の姿は違うということもあちこちに盛り込まれています。これはこの作家の作品の多くに通底するテーマと言えましょう。
 「クレストマンシー」シリーズ全四巻(野口絵美、田中薫子訳 徳間書店)でも、魔法の出来ない劣等生と思われていた少年が実は九つの命を持つ大魔法使いだった、とか、強い魔力を持っているのは姉ではなかったとか、魔法が厳しく禁じらた世界は実は魔法が過剰だったからだとか、読者の思い込みや予想をひっくり返していく様は面白く、その筆力に脱帽します。
 あちこちにちりばめてあるパロディーやパクリ、引用などの遊びもさることながら、生きていくヒントも散りばめられているので、気分転換にはもってこいのファンタジーです。

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2003年3月号

◎ナルニア国ものがたりシリーズ『ライオンと魔女』『カスピアン王子のつのぶえ』『朝びらき丸 東の海へ』『銀のいす』『馬と少年』『魔術師のおい』『さいごの戦い』 C.S.ルイス 瀬田貞二訳 岩波書店

 先日読書会のテキストになっていたので「ナルニア国物語」の『ライオンと魔女』を読み返しました。これは、児童文学ファンタジーの古典であり代表的な作品なのでご存じの方も多いでしょう。私は小学生の時に出会い、その後何度も読み返していました。
 実はこのシリーズ、キリスト教の真理を子ども達に伝えるために描かれたものです。とはいえ、説教くさいわけではなく、「ナルニア」という世界をきっちり構築してあります。冒険を楽しみつつ、キリストの救いや罪と贖いエトセトラを感じ取ることができるようになっているのです。シリーズ全七巻で、その世界の創世から終末までを語っています。
 シリーズ第一巻の『ライオンと魔女』は、四人の兄弟姉妹が、ロンドンの空襲を避けて田舎の屋敷に疎開したところから始まります。末のルーシーが大きな衣装だんすに入ってみると、その奥は雪が降り、フォーンのいる不思議な国でした。今、ここは白い魔女に支配され、冬が続いている中で、住人達はアスランが来るのを待ちわびています。
 冬なのにクリスマスが来ない。そう、救世主の誕生はないのです。そして春も来ないのです。ところが、子ども達はサンタクロースに出会いました。それは、アスランがナルニアに入ったという先触れでした。それから数時間の内に季節は一月から五月に進みます。白い魔女の魔力が破られ始めたのです。
 アスランは「海の彼方の国の大帝の息子」ですが、姿はライオンです。あくまで善い存在でありながら同時に凄まじい恐ろしさを備えた人です。一方、白い魔女はアダムの前の妻リリス・天魔ジンの血筋で、人間ではありません。四人の子ども達は、アダムの息子、イブの娘と呼ばれます。ナルニアの王となるのは、その血筋のものだけなのです。
 最初の戦いの後、夜中に一人、アスランは裏切り者の身代わりとなって処刑されるために石舞台に赴きます。その時、彼は辛く苦しそうです。そして、処刑場では敵が彼を罵り嘲るのです。つきそうのは二人の少女たちのみ。夜明けにアスランが甦ったシーンは、キリストの復活を彷彿とさせます。最後に、白い魔女は敗れ、子ども達は共に王座につくのです。
 次々展開する物語は面白いのですが、一九五〇年代に描かれたこの作品は、やはり無意識の中に性別役割分業が顔を出します。主人公はだいたい男女で共に冒険するのですが、それは子どものうちだけ。大人になったピーターは真(まこと)の勇士、エドマンドは会議と裁判に秀でていると言われるのに対し、スーザンは優しく海の彼方の王達から求婚され、ルーシーは華やかであらゆる国の王子たちの憧れの的となったというのが誉め言葉なのです。
 このように多くの男に求婚されるのが良いと描きながら、一方ではスーザンのお洒落には批判的です。シリーズ最後の巻『さいごの戦い』では、スーザンはお洒落とパーティに夢中になって、「ナルニア」のことを子どもの遊びと称したため、置いてきぼりをくうのです。家族みんなは、ナルニアからさらに向こうの国(さらに高く広く豊かなまことの国=天国)に行くのに、一人取り残されるのです。現実にも、列車事故で他のきょうだいや両親も皆死亡するのですから、ひどい仕打ちといわざるをえません。しかし、年頃の少女がお洒落にうつつをぬかすのは、そうしなければ夫を掴まえられないからで、そう要請する社会があるからです。それを、「女は馬鹿で見栄っ張りだから」天国に行けないといっているようです。子どもの頃読んだときもスーザンが可哀想な気がしていましたが、今は思わず怒ってしまいます。
 作者は「子ども心」=純真さを失うな、というつもりで書いたのでしょうが、救済の条件にジェンダーによる差別が入り込んでしまうあたり、「時代」のせいとばかりは言えないものを感じます。せっかくのキリスト教の真理を伝えるという意図を、はからずも裏切ってしまっているようです。他方、すべての「神」は本質的に同じだといいつつ、イスラム蔑視と取れるところもあります。
 大人になって読み返すと、案外物足りなく感じてしまうことの多い「ナルニア国物語」。子どもの頃にワクワクして読んだ印象は否定できず、つい面白いよと勧めてしまうのですが、こう考えてくると、古典的名作も、手放しで賞賛するわけにはいかなくなるようです。

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2003年4月号

◎ムーミン・シリーズ『ムーミン谷の彗星』『たのしいムーミン一家』『ムーミンパパの思い出』『ムーミン谷の夏まつり』『ムーミン谷の冬』『ムーミン谷の仲間たち』『ムーミンパパ海へいく』『ムーミン谷の十一月』『小さなトロールと大きな洪水』 トーベ・ヤンソン 下村隆一・山室静・小野寺百合子・鈴木徹郎・冨原眞弓訳 講談社

 ムーミンを知らない方は少ないでしょうが、トーベ・ヤンソンの「ムーミン谷」シリーズの本を実際に読んだ方も逆に少ないのではないでしょうか。
 三十年以上前に放映されたアニメの「ムーミン」は、シリーズ中もっともほんわかしたテイストの『たのしいムーミン一家』から、イメージをとってきています。私もそのイメージがあったので、大人になるまで、原作を読んだことはありませんでした。
 全巻を通して読むのは、今回は初めてでした。読んでみると、ユーモアと温かさだけではなく、文中に結構シニカルな言葉があったり、人生を考える上でのヒントがあちこちに散りばめられている、そのことに驚きます。そういう意味で読み応えがでてくるのは、第4巻『ムーミン谷のの夏まつり』以降でしょう。たとえば、第4巻では、何でもひがんで自分を惨めにしているミーサが登場します。彼女(でいいと思うのですが)は、最後は悲劇役者になることで、自分を生かす道を見つけます。あるいは親戚だからというだけで毎年夏祭りイブのパーティに招待している伯父夫婦が来ないといって惨めになっているフィリフヨンカがいます。彼女はムーミン達に楽しくないことを無理にする必要はないのに、と言われハッとするのです。
 『ムーミン谷の仲間たち』では、陰険にいびられ続けたため自分の姿を見えなくしてしまった少女ニンニが登場します。ムーミン達にやさしくされて、足から首まで見えるようになった彼女に、ちびのミイは言います。「たたかうってことをおぼえないうちは、あんたには自分の顔はもてません。」ちょっとどきっとしませんか?
 『ムーミン谷の十一月』では、ムーミン一家がいないムーミン谷に集まってきた様々な人(生き物?)を描きます。自分の考えが良いと信じて采配を振るおうとするヘムレンさん。自信喪失し気分転換にやってきたフィリフヨンカ。何でも忘れてしまうスクルッタおじさん、ムーミンママに会いたくて来たホムサ。それに5つの音色をさがしに戻って来たスナフキンと、妹のミイに会いに来たミムラねんさん。ここにはひとりぼっちで空想をふくらませている子どものこと、加齢によるぼけや不安症といったことも扱われています。結構鋭い言葉が出てくるし、不在故の存在感といったものも感じます。
 作者のヤンソンは孤独と自由を愛する芸術家でした。一九一四年生まれ、十代でイラストレータとしてスタートし、戦争前から風刺漫画雑誌の表紙絵などを描き続けていました。戦争直後に「小さなトロールと大きな洪水」を出版し、シリーズを書くと同時にロンドンの日刊イブニングニュースにもムーミンのマンガを描きました。
 彼女の夏の別荘は、小さな岩礁に建てた小屋。見渡す限り水平線という孤島で、有名な挿絵画家の母と、グラフィック・アーティストの友人とで四ヶ月ほどを暮らしたのです。そういうことを求める精神が、「いっしょにすごしていて、そのくせ、ひとりっきりになれる」関係としてムーミンとスナフキンを描くことができたのでしょう。
 もちろん描かれたのは五十〜六十年代なので、ジェンダーを意識しているわけではありません。でも、あったかいムーミンママといったステレオタイプ的なイメージではあっても、そんなママでも憂鬱な時や腹の立つときがあると、ちゃんと語っています。根底に流れる、個を重んじ、自由と独立を求める精神を、小学生からわかるように描かれているこの物語は貴重だと思います。

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2003年5月号

◎『空色勾玉』『白鳥異伝』『薄紅天女』 荻原規子 徳間書店
◎『精霊の守り人』『夢の守り人』『闇の守り人』『虚空の旅人』『神の守り人・来訪編』『神の守り人・帰還編』 上橋菜穂子 偕成社

 ここ数年、ずいぶん沢山のファンタジーが翻訳されています。日本でも、ファンタジーが沢山書かれていますが、その多くは、ティーンズ文庫や新書のノベルスなど。コミック感覚で読める軽いタッチが多いので、読みがいのないものが多いのです。
 そんな中で数少ない読み応えのあるファンタジーを描いているのが、上橋菜穂子と荻原規子です。児童書として出版されており、舞台は中世ヨーロッパ風ではなく、古代日本などの東洋風です。
 荻原規子の「勾玉」三部作は、古事記を背景にした『空色勾玉』、その少し後という設定で日本書紀などからイメージした『白鳥異伝』、さらに時代が下って更級日記から発想した『薄紅天女』からなります。国語科という彼女の出身を生かした物語設定なのですが、『空色勾玉』が出た当初は、戦後タブーだった古事記をベースに日本神話や天皇などを取り込んだ作品として、児童文学界に物議を醸しました。
 確かに、「血筋」重視や、神の息子が豊葦原に住み国の父となるという結末は、容認しがたいものがあります。一歩間違えば、戦前の「現人神」「万世一系」を再現させるものですから。作者や編集者は、そういうつもりはなく、でも物語はこうなってしまったと、非難を覚悟の上だったようです。ならばもう少し考えられなかっただろうかと、ちょっと残念です。
 一方、主人公はほとんど少女で、定められた運命に従うのではなく、自分の思いに従って飛び出していくあたりは、女の子の受けるのももっともです。ですが、その一番強い動機が恋い慕う男の子の後を追う、という印象があり、この点ももう少し考えて欲しかったという気がします。というのも、作品世界はきっちり構築してあり、且つ物語は壮大で、主人公達の成長をそれなりに描ききっている作品だと思うからです。
 上橋菜穂子は、「守り人」シリーズを書き継いでいます。本編五冊外伝一冊で、まだまだ続きそうです。最初の『精霊の守り人』では、皇子と平安風の王朝がでてきましたが、その後はいくつもの隣国へと世界が広がり、様々な権力のあり様や、王のあり方などを見せています。文化人類学者である作者は、多様な文化を提示する点に抜かりはありません。
 主人公は三十歳の女用心棒バルサ、という点が児童文学にしては異色です。が、彼女がかかわる相手が十代前半の子どもであり、読み手にとっては違和感はないようです。バルサは、すでに自分の人生を引き受け、生き抜こうとする人であり、子ども達にある種のモデルを提示するかっこいい人なのです。いわば各巻に登場するゲストである子ども達が、自分の身に降りかかった事件とバルサとの関わりを等して、自分の人生を引き受けていこうとして終わる、という作りになっています。
 最新刊の『神の守り人』は荒ぶる神の寄り代となってしまった少女と、彼女を守ろうとする兄、それを利用しようとする者たちの話です。少女が危機に曝されたとき、神を呼び出し、周囲をすべて殺戮してしまいます。彼女は「良き神」が守ってくれると思うのですが、兄やバルサには無差別殺人に見えます。最後に神の血生臭を感じ取った少女は、神を飲み込み封じ込めようとします。そう決心する気持ちの揺れ動きが納得できるように描かれています。私にとって日本の作品の多くは、この最後の落とし方が甘いと思うことが多いのですが、これはすんなり読めました。
 神々や精霊の住む世界とこの世が重なり合っている、限られた見る力のあるものしかそれは見えないという世界観は、ちょっと不思議ですが、日本人の神観念を考える上でも面白い作品だと思います。

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2003年7月号

◎「ゲド戦記」X『アースシーの風』 アーシュラ・K・ル=グイン 清水真砂子訳 岩波書店
◎『伝説は永遠にーファンタジーの殿堂ー』T,U,V  ロバート・シルヴァーバーグ/編 斉藤伯好/〔ほか〕訳 ハヤカワ文庫FT

 十一年ぶりに出た「ゲド戦記」X『アースシーの風』を読み終えたのは、空が白みかける頃でした。店の本を店番しながら読めるはずもなく(お客様の対応以外にも仕事が山積みです)、又持ち帰るのも公私混同とはばかられ滅多にしません(読みたい本は図書館にリクエストします)。ですがこればかりは我慢できずに入荷直後に抜き取り、汚さないよう開きすぎないよう気にしつつ読み始めたのが夕食後の十一時過ぎ。そして幾晩にも渡るのは避けたいと必死で読んだ挙げ句がこの時間だったのです。
 いくら読み進めても何事も起こらない、そんな物足りない印象が先行しましたが、ほうと思ったのは、竜(ドラゴン)と対する場面。そして死者を解放する場面でした。読後のしんとした静かな印象は、結局世界を救うのは、ドラマチックな興奮(爆撃や武力革命等による)ではなく、生け垣を壊すという小さな行為の積み重ねであり、その後にあるのは静けさだということでした。それを充足ととるか、取るに足りないととるか、そこに読み手の意識が露わになる物語なのかもしれません。
 印象的な場面の一つ、死者を解放する事で世界が救われるというシチュエーションは、〇二年七月号でご紹介した「ライラの冒険」V『琥珀の望遠鏡』にもありました。共に、永遠の生命を得ようと欲望する権力者の画策よって、結果的に死者の魂は灰色の何もない世界に閉じこめられてしまい、その集積が世界の均衡を崩している、という設定です。だから世界を救うのは、権力に縛りつけられた死のイメージを解放することなのです。『琥珀〜』は二〇〇〇年にイギリスで、『アースシー〜』は二〇〇一年にアメリカで発表されました。この同時多発的と言ってもいい現象をどう考えればいいのでしょうか。誰かこのようなイメージを語った思想家がいるのでしょうか?もしそうならば、その人の著作を読みたいと強く思いました。
 もう一つの竜と対する場面。かつてゲドは、幼い竜を魔力で殺し、長老の力ある竜には知恵で対峙し、人間に害をなさないよう約束を勝・ち・取・り・(傍点)ます。今回、テハヌーは「兄弟よ」と呼びかけ、人に害となることを止めるよう依・頼・(傍点)するのです。結果、竜が苛立つその原因を取り除くためにも、世界の均衡を取りもどすべく、死者の国の垣根を壊すという流れになるのですが、この姿勢の違いに三〇年近い歳月を感じました。この新たな価値観について、神の名を引き合いに出し救いを語る方たちにはぜひ考えてもらいたいものです。
 今、暴力のない世界を求める声は、勝ち負けではない価値観への転換を図っていると言えます。それは多様な価値観の共生を探ることでもあります。この『アースシー〜』の中でも、かつての「(男の)魔法使いの知恵のみが正しく、まじない女の知恵は邪」、「多島海(アーキペラゴ・ルビ)に対し、カルカドは野蛮」といった価値観が訂正されています。
 多様な価値観の共生、それは相互の尊重によってのみ可能になると一口に言っても、自分の信じていることを相手に押しつけ合わずにいる事の難しさは、共通するルールを成立させる基盤そのものを共有しにくい、ということと相まって、なんだかウロボスの輪のような議論になってしまいます。それでも、ル=グインはその方向を探ろうとし、互いに理解し合おうとする姿勢は努力によって培われると語ります。多島海の王レバンネンとカルカドの王女セセラクのように。
 もう一つ印象的だったのは、アネイリンの登場です。彼女の物語は『伝説は永遠にB』(ハヤカワFT文庫)に収録されていました。そうか、ここにつながるのかと、うれしい驚きでした。この短編をも収録した外伝の原書は、X巻の直前に出ており、日本ではこれからの翻訳になるようですが、早く読みたい!と叫んでしまいます。ゲドの物語としては、X巻が最後かもしれません。しかし短編でも良い、「アースシー」でも「ロカノン」(ハヤカワSF文庫)でも、もっと書き続けてほしいと強く願っています。ル=グインの描く世界は、時代を読み解く鍵が潜むものなのですから。
 一年間、ファンタジーを中心に語らせていただきました。プーの森のホームページには「このごろ読んだ本」というコーナーもあります。これは月刊「プーの森ひつじ子さん便り」に連載しているものです。興味のある方はのぞいてみてください。おつきあいいただきありがとうございました。

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